サンルスーにはカウンター席があります。元来口下手で、お客様と話をするなんて、そんな大それたことなど到底できるはずのないシェフ金子(30年以上相棒を務めている私だって、ほとんどしゃべったことありません)が、なぜわざわざカウンター席を作ったのか? それには深いワケがあるのです。
サンルスーは28年ほど前のオープン当初、夫婦2人でやっていたわずか12席の小さな店でした。一応、駅から徒歩10分ということにしていましたが、実際は15分以上かかる場所。そんな狭くて遠い店に、バスとタクシーを使って毎週通ってくださったお客様がいらっしゃいました。
Yさんはとても素敵なご婦人で、週末になるといつも決まった席に座っている彼女を見て、他のお馴染みのお客様が「あの方を見て、僕はもっときちんとした服装で来なければと反省した」とおっしゃったことがありました。また、「あの貴婦人は一体どなたなんですか?」とか大正時代みたいなことを言うお客様もいらっしゃいました。
立ち居振る舞いから装いまで、それはそれは素敵な女性です。このYさんから「こういうものを作って」とか「こうした方がいい」など、一度も言われたことはありません。でも気づいたら、Yさんのために料理を作っている自分たちがいました。
経歴を重んじる傾向のある飲食業界で、どこの誰ともわからない無名の料理人夫婦である我々が奮起できたのは、「Yさんが通ってくれるからちゃんとしたものを出したい」と思えたおかげだったと思っています。
Yさんはワインをグラスに半分飲む程度で、2名席を1人で占拠してしまうことを、とても気にしていらっしゃいました。営業的には確かに、稼ぎ時の週末にはありがたいことではないのかもしれませんが、我々には「Yさんがいてくれれば、もうそれだけでいい」という気持ちがありました。
Yさんがいらっしゃるときのサンルスーは、なんだか店内の雰囲気がピシッとしていました。「他のお客様にも影響を及ぼすお客様の存在ってあるんだ」としみじみ教えてもらいました。
8年後、サンルスーは狭くて遠い店から、現在の店に移転しました。その時、建築家の先生に最初にお願いしたのが「カウンター席を作ること」でした。カウンターがあれば、Yさんにも気兼ねなくご来店いただけるからです。Yさんも殊の外喜んで、新しいサンルスーに通ってくださいました。
Yさんのために作ったカウンターですが、なぜかここが意外にも人気で、特に「カウンターの奥」は今ではいちばん人気の席です。
ご予約時「カウンター席になります」とお伝えすると、とても尻込みされていたお客様が「居心地がいい」とおっしゃって、次のご予約は大抵カウンター席を指定されます。「目の前で料理人たちが作るライブ感も最高!」なんだそうです。この居心地の良さはYさんが作り出してくれたものと信じています。
現在、Yさんはご高齢のため、施設に入られて、ゆったりとした日々を過ごされています。
どう贔屓目に見ても大して恵まれていない料理人人生を送ってきたシェフ金子と、何をやってもパッとしない私にとって、Yさんとの出会いはかけがえのないものであり、そしてYさんが黙って通い続けてくださったあの時があったから、今まで店を続けられたと心から感謝しています。
どう贔屓目に見ても大して恵まれていない料理人人生を送ってきたシェフ金子と、何をやってもパッとしない私にとってって、ナニをおっしゃる、マダム。ビストロの鑑というか、こういう店が近所にあったらという、教科書のようなお店を続けてきてくれた人が。ちょっと遠くなってしまったけれど、また、行きたくなりました。Yさんと違って、私がいったからといって、どうということはないでしょうけれど。森枝拝。