ビストロ。それは我々にとって特別な意味を持つ、たまらなくいい響きの言葉です。
30年前、夫婦でフランスへ修業の旅に出て、さまざまなお店を食べ歩いて以来、ビストロの世界に完全に魅了されてしまいました。
本当に楽しそうに食べて飲んでおしゃべりをする、ビストロに集う大人たち。ロマンスグレーの素敵な男性が、お皿一面に並べられたサーモンの燻製に、大きく半分にカットされたレモンをギュッと絞る仕草。金髪をボブスタイルに切り揃えた美しい女性が、ブランデーグラスをゆっくり静かに回して香りを確かめ、チョコレートをかじりながら優雅に飲む姿…。おしゃべり好きのフランス人たちのガヤガヤした話し声も、心地よいBGMです。
なんてかっこいいんだろう。なんて素敵な空間なんだろう。その雰囲気丸ごと、我々はたまらなく好きになったのです。日本ではビストロというと若者が行くカジュアルなお店というイメージを持っていましたが、本場フランスでは、ビストロって大人が楽しむ空間なんだ!とつくづく感じました。
このフランスで体験したビストロのイメージがあまりにも強く、「日本に帰ったらいつか大人のためのビストロをやりたい」と思うようになったのです。
そして1995年、わずか12席の小さなお店をオープンしました。名前は、ビストロ・サン ル スー。以来27年余り、ビストロの世界が大好きであることを、自分たちの基軸として大切にしてきました。
フランスの飲食店は、伝統的にカテゴリーがきちんと分かれています。レストラン、ビストロ、ブラッスリー、カフェ。その中でもビストロは、レストランよりこぢんまりとしていて気取らない雰囲気の中、フランスに昔からある定番料理や地方料理が味わえる店、といったところでしょうか。
パテ・ド・カンパーニュ、キッシュ・ロレーヌ、オニオングラタンスープ、スープ・ド・ポアソン、シェーブルのサラダ、鴨のコンフィ、カスレ、プチ・サレ、シュークルート、クスクス、クレームブリュレ、プリン…。我々がビストロメニューとして大切にしている、当たり前の普通の料理を、ずっと好きで通ってくださるお客様が、おかげさまでたくさんいらっしゃいます。
ビストロは、レストランよりカジュアルです。だからなのか、お褒めの言葉として時々「ビストロなのにちゃんとした料理」という評価をいただいたりするし、多くのお客様が「ビストロというよりフランス料理店」としてご来店くださっていることも、充分承知しています。サンルスーの人気メニューのすべてが、伝統的なビストロ料理ではないし、そもそも、日本とフランスでは当然、食文化も料理店文化も違います。
でも正直に言うと、我々にとってビストロとは、スタイルの一つであって、どちらが上とか下とかはないのです。ビストロにはビストロでしか食べられないものがあるので、それを大切にしていきたいし、普通の、当たり前のものだからこそ、きちんとした修業とベース、そして丁寧な仕込みが不可欠だと思っています。
今でも「果たして我々は、思い描いていたようなビストロをやっているのか」…常に葛藤の中にいます。日本でもブレずにバリバリのフランス流ビストロを貫いているお店も何軒か知っていて、その確固たる信念に「すごいな」と頭が下がる思いです。
でも、そんな思いを抱えながら、ふと客席を見てみると、皆さん、食べて飲んで語り合って、とても楽しそうです。そして帰りがけに「今日も、どうもありがとう!」「おいしかった、また来ます!」と声をかけてくださる。地味だけれど基本に忠実なサンルスーの料理を理解して、楽しんでくださっていることを、しみじみと感じます。
フランスで見た、大人たちが集い楽しく飲んで食べて語る、魅力的なあのビストロの世界。我々の支えはいつも、その忘れがたいイメージと、喜んでくださるお客様の姿なのです。
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